主催の存在意義とは

そろそろ夏コミの当落発表も刻々と近づいており、それに伴い締め切りの方も刻々と近づいてくる恐怖感に怯えながら作業に励む頃だとは思いますが皆様いかがお過ごしでしょうか。よくよく考えてみれば同人誌というのは本来「同じ志を持った士で作る本」であるので合同誌というのは変な日本語なのですが、個人サークルとかいう用語も蔓延っている昨今ですので問題ないのでしょう。一度うちのサークルでも「アケマスこそ至高」と称して合同誌を製作しましたが、普段の個人作業とは異なり同好の士で一冊の本を作るのは楽しいものであるのでそれは普段の作業とは異なり楽しいものであるので機会があれば是非皆さんにも合同誌を製作してみていただきたい。今回から機会が向いた時に合同誌の主催したり参加するにあたっての注意点をつらつらと書いていければと思う。
さて、今回のテーマ「主催の存在意義」ですが、大きく分けて次の3つ、顔、認印、尻拭いである。もちろん文章を書いたり、絵を書いたり、編集したり等々の作業をやってもいいが、それは主催のメインの業務ではない。別にほかの参加者にぜーんぶ丸投げしても全く問題ない。
まず最初の”顔”であるが、主催は同人誌の顔である。主催の”顔”によって同人誌のクオリティがほぼ決まると言っても過言ではない。主催の”顔”が広ければ文章が上手い人をいくらでも連れてこれるし、綺麗なイラストを描く絵描きさんもなんぼでも連れてこれるかもしれない、もちろんInDesignでバリバリ仕事で編集しているような人材だってしれっと連れてくることも可能でしょう。素人が下手に手を出すよか上手い人に頼んだ方が確実なわけでそういった上手い人をうまく連れてこれるのが主催にとっては重要な点になる。
次の”認印”であるが、この合同誌における最終的な決定権は主催である。主催なのに決定権がなければ死んでも降りた方がいい。そのくらい大事なところである。集まった原稿を掲載するか、修正要請を出すかといったことだけではなく、お金の管理などサークルにまつわるすべてのことを最終的に決定するのが主催の責務である。これができない人間は主催をやるべきではない。本の舵取りをするのは主催だ。
最後の尻拭いは一番おろそかにしてはいけない項目である。これで下手打つと二度と合同誌で成功は望めないだろうし、これがきちんとできる人は次も合同誌で成功を収めることができるであろう。同人誌でトラブルはつきものである原稿が来ないだの、来たはいいけどクオリティがアレだったとか、当初の予算をぶっちぎって予算使い切ったとか etc まずそういったトラブルが起きた時に自分が矢面に立てるかどうか。そのトラブルについてまずは自分ができることをやりきるというのを見せることが最終的な主催としての信頼につながっていくのではないかと思います。
間違っても合同誌で予算が足りなくなって、友人にカンパのお願いを押し付け、自分はライブツアー全通なんて芸をやってはいけないのであるということでこの回を締めくくりたいと思う。